昭和40年03月17日 朝の御理解
例えば、道を歩かせて頂くでも、その目的にはこの道を辿り、ここを通っていかなければならんということを教えて頂くのと、教えてもらわないのと大変な違いがある。場合によっては、せっかくここまでも来たのに道が違っておったと言うてまた、後戻りをしなければならないようなことにもなってくる。私共が朝晩こうして御理解を頂くと言う事、それは丁度、道を教えて頂いておるようなもの。
さあ今日は、今朝のこの御理解のここを持って今日一日の道しるべとさして頂こうぞと。それをそう頂いてこそ、そのみ教えが生きてくる。又、おかげも頂ける。私は、今日ご神前に出て、あれこれと思わせてもらったり、お願いさせていただいたりさせて頂いた。で、その御理解で(行こうと)思ったけれどもどうしても頂けなかった。(重ねて )お願いさせて頂いたら、なんとも言いようのない程の、まあ言うなら、魚を釣るなら、魚を釣るのに餌がある。
見事なまあほんと言うなら、おいしかですよ、餌がついてたら。今日でもそれに皆が、食いつこうとしない、ところを頂くのですね。いわゆる、どんなに良い教えを頂いても、それをただ、お参りはしておる、御理解は頂いておるけれども、それを、道しるべとひとつもしてないものに、教えて何になるかというようなこと。言われてみるとその通りだなと私は思うんですね。
本気で今日はそれに取り組むという者が少ない。少ないし本当にないと言うてもいいくらい。それでは道しるべにはならないわけなんですね。それくらいに御理解というものは大事なものなんです。それでも私また最後にご祈念終わって最後に立たせてもらう時に、お願いしたけれどもやっぱり頂かない。そして立ちがけに頂くのが菊正宗であった。ね。菊といやあ椛目の信心だろう。正という字は正しいと書いてある。
正宗と言えばそれはお神酒のことである。椛目で、日頃、頂いておるそれをとにかく、日頃頂いておる教えというのは非常に漠然となるのですから、じゃあ、私が言うた、朝の御理解なら朝の御理解を、に、焦点を置いたら、今日はここで行くぞ、という生き方さえすれば間違いがないのですけれどね。だから、その非常に勢いをです、自分の心をかけどうしにかけておれれるのです。
今日はこうやってここに、(ね )ところが今日のような頂き方をすると、これは、椛目の御理解、椛目で頂いてる教えてというものを一から十まで心の中に描かせて頂いて、こういう時には、こう行くのが本当。こういう時には、あーするのが本当だということをです、心の中に、やはり、もういっぺん味わいなおさなければ、味わい直すというよりも、頂きなおさなければできない。
今日は、だからそういう難しい(ししつ )だと私思うのです。ね、言うなら心にスキも、油断もしてはならないという一日。こうすることが本当だということを本当に、行事ていかなければいけない。(いわば )今日は漠然とした、ああ、その、道を歩かせてもらう。ですから、漠然としとったんでは、いわゆる漠然という、おかげが漠然としてくるであろうから。
そのおかげをはっきりする為にはいよいよ、いわゆる最後の信心を、私共が信心のかけるように、生き方、あり方というものをです、心させていただいておかなければいけないということを感じます。どうぞ、もう、今日は本気で皆さん信心にならなければいけませんよね。今日は、ああ、この、このような教えでいこう、その、今日はこの御理解でいこう。今日の、というようなわけじゃ今日はいかんです。
いわば、道しるべというものを神様は教えてくださらんのだからですね。私共は、あの、日々がそれなんですけれども、今日は、私自身がです、今朝はこの御理解を元にしてと、私は先生方に申しますんです。昼から、(ここえ付かれる )たぶん久富先生あたりなんかの場合、ね、椛目で朝の御理解を頂ずして御結界座ったってなんになるかと、どんなに、素晴らしい事を言うてもダメだと。
今朝の御理解を頂いて今朝の御理解にもとずいて、お取次さしていただかなきゃいけんと。だからまず、(来たら御理解朝 )を、朝の御理解を(テープで )でも頂きなさい、と私は言う。申しますんですけれども、その位に朝の、例えば、朝の御理解というのは、その一日の道しるべになる事が解いてある訳なのです。ね、だから、それを本当に頂くことになれば、それはその、いわば有り難いおかげの頂けれる。
有り難いところを味わいながら進んで行けれる事を教えて下さるのです。今日のは、そんなわけにはまいりませんですよね、ですから。ですから、日頃頂いておる、もうどういう、一事が万事に信心にならなければいけない、というようなものを感じます。そのつもりで今日は信心をなさならければならないと思います。おかげ頂かなければいけません。